講師紹介profile

櫻井 靖子音楽教育家

経歴
国立音楽大学付属音楽高等学校(ピアノ科)卒業 
国立音楽大学教育音楽学部音楽教育学科第2類(リトミック専攻)卒業  
大学在学中より(株)音教センター派遣リトミック講師、楽器店のピアノ講師

  • 日本ジャックダルクローズ協会(F.I.E.R日本支部)会員
  • 日本ダルクローズ音楽教育学会会員
  • ピティナ指導者会員
  • 国立音楽大学および国立音楽大学附属小学校、学校運営評議会委員

1991年~1997年 財団法人児童育成協会こどもの城音楽事業部職員
1995年 Institut Jaques-Dalcroze Geneveサマーコース受講
1999年 ジュネーブリズム学会参加
2000年 松下功氏率いる文京区民オーケストラ・ドイツ公演に現地エキストラとして参加。カイザースラウテルン~パッサウ演奏旅行同行
2000年 ドイツ、ハノーファー音楽演劇大学(リトミック科)に編入
2001年 スウェーデン(マルメー)リトミック北欧大会、ジュネーブリトミックヨーロッパ大会にドイツの音楽学生として参加
2001年 帰国
2002年~2006年 子育て支援グループで母親向けリトミック講座、未就園児リトミック講座を開催
2004年 ダルクローズ・リトミック国際大会(東京)でドイツ語通訳を務める
2008年 ジュネーブ、2014年東京にて、ダルクローズ・リトミック国際大会参加 
2018年 ポーランド(カトヴィチェ)ダルクローズ・リトミック国際学会参加 
2017年~2022年 新渡戸文化学園高校音楽コース非常勤講師 

2010年から、影絵人形劇団(年2回の公演)の音楽と作曲を担当。
2022年よりピアノ愛好家のための演奏会“トーンライゼ”主催 。
日本教育カウンセラー協会・初級教育カウンセラー。 

幼少期

 もともと、とてもシャイな子どもでした。幼稚園の先生に話しかけられても涙ぐんでしまうほどで、自分の気持ちを言う事もあまりなかったのですが、なぜか5歳の時にピアノを習いたいと言い出したそうです。それで、母が近所の大手ピアノ教室に連れて行ってくれました。

 ところが・・・・教室の扉を開けると、何組もの母子がすでに教室にいました。案内された席に座ると前には電子ピアノがありました。

 ”知らない子がたくさん!” ”これはピアノじゃない!!” とダブルでガッカリ。

 おとなしい私ががっかりして、訴えたたためか、即刻、母はマンツーマンのピアノレッスンの先生を探してくれました。はじめてのピアノの先生は、とっても優しくて・・・幸せなピアノライフが始まりました😊ただただピアノを弾くことが楽しくて好きな女の子でした。この頃の将来の夢は「ピアノの先生」だったのは、きっとピアノの先生がとても魅力的だったのだと思います。

子どものころ

 小学生の時にはピアノの他に、音の聞き取りや、簡単な音楽理論、音符の読み書きや歌を同時に勉強していました。音の聞き取りや楽譜を読み取って歌うトレーニングは、耳が鍛えられるので、ピアノの演奏にもとても良い影響がありました。

 小学校高学年の時、学校の代表に選ばれて国立市開催の「くにたち音楽会」に出演することになりました。でも「くにたち音楽会」に出演が決まった時、シャイな私は、嬉しいというよりも逃げ出したい気持ちになりました。子ども心に「お客さんの前で演奏することに何の意味があるの?」と思っていたのです。でも、振り返ってみれば、本番までにいつも以上に練習したり、いつもとは違う先生のレッスンを受けに行って刺激を受けたり、新しい友達が出来てお互いに励まし合ったり、プラスになる事がたくさんありました。今思えばとても貴重な経験で、演奏会に出していただいた事に感謝しています。

 そのころ、ピアノの次に夢中になっていたのが英会話でした。親戚の家の離れに間借りしているアメリカ人に会話を習いに行き、コミュニケーションを取るうちに、異文化への興味やあこがれも持つようになりました。

思春期

 国立音楽大学附属音楽高等学校ピアノ科に進んだ私は、フルートや声楽の伴奏ピアニストを経験し、ソロピアノとは違う楽しさを味わうようになりました。フルートの先生も、歌の先生も、ピアノの先生と違う視点でレッスンをされるのが面白くもあり、難しかったのですが、相手の音楽を感じ取りながら、自分の役目を演奏で果たすことが好きでした。当時、毎週水曜日に在校生による演奏会がありました。これは、高校3年生が全員1度舞台に立つものでした。1年間かけて約160名の演奏を聴くわけですが、この約1時間~1時間半、薄暗い客席で本を読むのが楽しみでした。

ショパンの華やかなワルツ・・・
バッハの落ちついて静謐な音楽・・・
ドビュッシーの水彩画のようなハーモニー・・・
モーツァルトの軽やかなソナタ・・・

 耳に入ってくる音楽によって、同じ物語なのに、背景の街並みが変わり、空の色も風景も登場人物のキャラクターも違って感じる・・・面白い!!!もう病みつきでした。演奏曲目がわかると、それに合う本を考えたり、時には背伸びをしてボードレールの詩集を読んでみたりして(笑)本当は、演奏会の間は演奏を聴かなければいけないので、本を読むことはNG行為。先生にみつかると、本は没収なのですが、その辺は上手く目を逃れて・・・。

 この経験は、音楽と物語の関係や、音楽と言葉の融合に強い興味を持ったきっかけになりました。のちに影絵人形劇団の音楽を作ることに繋がっていった愛おしい時間でした。大学進学の時期になっても、相変わらずシャイな性格だった私ですが、ピアノを一人で練習している時間も、伴奏ピアニストとして誰かと音楽を作り上げているその時間もとても幸福で、”一生ピアノを弾き、音楽に関わる仕事をしていたい”という気持ちはとても強かったと思います。

 ピアノ(音楽)は言葉と同じ、とても優れたコミュニケーションツールだと気がついた私は、音楽教育に興味を持ちました。そして、当時、国内の大学で唯一ダルクローズリトミックが学べる場所だった国立音楽大学教育音楽学部音楽教育学科第2類(リトミック専攻)へ進学したのです。

二十歳のころ

 大学では、授業に飽き足らず、オーケストラのサークルに所属しコントラバスを習い始めました。ピアノだけを演奏していても、自分の演奏がちっとも成長しないような気がしていたのがこの頃です。

”もっといろいろな音色を知りたい”
”もっともっと音楽の世界を広げたい”
と、始めたオーケストラ。

 一番大きな弦楽器のコントラバスは、自分の体ぐらいの大きさです。弓をこすって演奏をするには、全身を使い、ピアノを弾いている時には意識しづらかった音楽の息づかい、フレーズ感をからだ全体で表現することが必要でした。音楽との一体感を強く感じるのが面白くて、オーケストラの練習にのめり込ンでいきました。それまでに経験していたピアノと他楽器とのアンサンブルの楽しさ、それに加えて管弦楽の奥深さにハマっていきました。

 そして、なんと・・・コントラバスでジュニアオーケストラの演奏旅行にどうこうすることになったのです!生まれて初めての海外!しかもウィーン♡♡♡!この体験はその後の人生にも音楽活動にも大きく影響しました。

社会生活

 大学生活も終盤、大学の紹介でリトミック講師として複数の幼稚園で教えるようになり、楽器店のピアノ教室講師もするようになりました。幼稚園のリトミック講師の仕事で印象に残っているのは、高麗川という秩父の幼稚園のリトミックです。ここは全部で9クラスあるマンモス幼稚園。朝からお弁当の時間までの3時間で、全クラスのレッスンを行うのです。一気に200人近くの子ども達にレッスンをする経験は、この時が人生最初で最後でした。

 幼い子供のレッスンでは、当然毎回いろいろなハプニングがおきました。転ぶ、ぶつかる、もめる、楽しくなっちゃって先生の話が耳に入っていない、ボールの色をめぐってけんかになる。

 ある日、カーテンの陰に隠れて出てこない子がいました。どうしたのか聞いても、何もしゃべりません。次の週も同じ・・・。

 リトミックが嫌いなの?それとも私のことが嫌い?と悩む・・・。

 すると担任の先生が、「あと少し放っておいてください」と。何か事情があるのだとわかり、ホッとしたのですが、本当にその後少し経つと、他のこと変わらずリトミックを楽しむようになっていました。あと聞いたのですが、お母さまがしばらく家を空けていて、その間カーテンに隠れたり、部屋の隅で動かなかったりしていたそうです。お母さまが帰宅した次の日からはケロリとしていました。

 そんな風に、突発的なこともあれば、長く問題を抱えている子どももいて、振り回されることも多かったのですが、ここで、ずいぶん対応力が培われたと思います。どの幼稚園でも、お弁当の時間に各クラスを回って一緒にお弁当を食べると、子ども達がすごくうれしそうで、私に寄ってきては、いろいろなお話をしてくれるので、少しづつコミュニケーションをとるようにしていました。午後は、なるべく一緒に遊んだりして、各クラスの担任の先生からも情報収集をしてレッスンに活かす・・・私なりに”必死”な日々でした。

 その後、就職した青山の“こどもの城”でも、毎日たくさんの親子と関わることになりました。こどもの城、音楽事業部では、クラシック音楽以外のたくさんの民俗音楽を学ぶ必要がありました。和太鼓、中国のアンサンブル、インドネシアのガムラン、ブラジルのサンバ、カリブの音楽、邦楽などのイベントを継続して行うので、いろいろな世界の人と知り合い、いろいろなタイプの音楽の音楽の指導を受けたり、バラエティに富んだ経験をしました。幼いころから「異文化」に興味を持っていた私には、ワクワクする日々の連続でした。

 こどもの城は、夏休みや冬休みには全国から多くの親子が訪れる施設でしたが、平常期間は様々な講座を開講していました。そんな施設では、”一期一会の親子との関係”も、”数年にわたる親子との関係”もどちらもありました。こどもの城での数年間、毎日毎日親子を観察し続けました。担当する講座で、子どもと母親をじっくり観察。イベントでは参加している親子の様子ややりとりを観察。放課後の時間帯に一人でふらっと遊びににくる子どもを観察。その子の親御さんと会うことがあれば声をかけて話しをしたりしました。親子のいろいろな関係を見て、まさに「子は親の鏡」という言葉に尽きると痛感!このことが、実際に私の子育てにかなり影響しています。

 当時、こどもの城では、子育て支援に力を入れていました。その活動で、私が強く思ったのは、母親が幸福でないと、子どもは幸福感を得られないということ。母親の幸福の為に、なにができるのかなと、考えていました。いろいろな経験をして、考える日々でしたが、こどもの城での仕事が素敵だったのは、いつも音楽が真ん中にあったこと。こどもの城では「子どもと音楽の専門家」として、音楽だけでなく「人の成長」についてたくさん学んだ時期でした。

ドイツへ

 結婚を経て夫の赴任先のドイツで暮らすようになりました。

 憧れていた海外!大好きなドイツ!!クラシック音楽の多くの作曲家の故郷ドイツ!!と心躍る、幸せな引っ越しなはずなのですが、私は夫の都合で大好きなこどもの城の仕事を辞めることに納得がいかず、泣いてばかりいました。

 出産後、育児休暇中に決断をしなければならず、悔しい気持ちと、私の復帰をまっていてくれた職場の方々にも後ろめたい気持ちにさいなまれていました。「育児休暇が3年とることが出来れば・・・」と、何度思ったことでしょう。結局私は全てを受け入れ、離職を決意して、ドイツへ引っ越しました。

 それは娘が1歳になったばかりの時でした。一度決意したら、あとは前向きになるしかありません。ドイツの生活に馴染むべく、育児事情をしらべ、ベビースイミングに通ったり、ドイツ語の学校に通ったり、ドイツ人のママ友を作ったり、近所の方たちと知り合いになり、一緒に住まいの周辺の草むしりをしたりして、しばらくは主婦として楽しい暮らしをしていました。ドイツでの子育てと日本の子育ての違いに、いちいち感嘆したり、ワクワクしたりしていましたっけ。

 ある日、ふと、ドイツの音楽教育とリトミックにも関心を持つようになりました。ドイツにはシュタイナーやオルフなど有名な教育のメソッドもある。それに、リトミックの創始者であるジャック・ダルクローズは昔、ドイツのドレスデンにリトミックの学校を作っているのです。ドイツの子どもたちはどんな風に音楽の習い事をしているのかな?当時、幼い子が行くような音楽教室はあまり無いようでした。

 そして、ドイツに暮らし始めて最初の夏、一度行ったことがあるジュネーブの音楽大学で開催されたリズム学会に参加します。そこで、リズム学会に参加していた、ドイツの音楽大学の教授と出会いました。その出会いがきっかけで、その数か月後、彼の教える音楽大学の授業を聴講をさせていただくことになったのです。聴講には、自宅から急行列車に乗って2時間、約200キロ離れた都市へ、往復4時間かけて通いました。

 この後、その時に知り合った教授の提案で、大学内の子どものリトミッククラスのレッスンを担当することになったり、ごく自然にリトミックの研鑽を積むような場に身を置くようになっていきました。

音楽は国境を越える!!

 そのころ、作曲家の松下功氏率いる文京区民オーケストラのドイツ公演がきまり、縁あって現地エキストラとして参加することになったのです。カイザースラウテルンからパッサウへ、ベンツのワンボックスカーにコントラバスと家族を乗せてオーケストラの演奏旅行に合流しました。(車はレンタカー。ワンボックスカーを借りたら、たまたまベンツだった。これもドイツならでは!)

 この時の演奏会は、全てが印象的でしたが、日本人がベートーベンの第9を演奏することにドイツ人は「日本人(市民オーケストラ)にベートーベンが演奏できるのか?」と興味津々で、会場はとても湧きました。

 そして、終演後にステージに駆け寄ってきたドイツ人のお客様に、生まれて初めてサインを求められる経験をしました。ドイツ人にとってのベートーベン、日本人にとってのベートーベン、思いは違うかもしれませんが、音楽は国境を越えるのです!!

憧れの大学生活!

 その後、ますます、ドイツの音楽教育に関心が高まり、意を決してリトミック科のある音楽大学を受験すると、なんと合格!

 2000年、ドイツ、ハノーファー音楽演劇大学(リトミック科)に編入することになりました。入学試験の後、教授会で1ゼメスターからではなく編入に決まったそうです。いきなり7ゼメスター(日本の4年生)になった私は、2名の教授(Prof.R.Ringと,Prof.B.Steinmann )の指導の下、幼児~成人のリトミッククラス指導及びピアノ演奏、教育法の研鑽を積みました。

 授業の内容は、日本の音大で既に習ったこともありましたが、ドイツならではの「身体生理学」「演技・表現」「身体表現」「即興演奏」「宮廷舞踏」「教育改革」など。実際にドイツの子どもたちにレッスンをしたり、大人に教える機会をいただいたり、卒論を外国語で書くことになったり、口頭試問で痛い目にあったりしました。

 学生になって良かったことは、ドイツの音楽大学に在籍したおかげで、在学中リトミックヨーロッパ大会にドイツの音楽学生として参加することもできたことです。スイスとスウェーデンの都市で、リアルな音楽教育を体験する機会に恵まれました。短い期間でしたが、得たものはとても大きく、その後の私を支えることになりました。

帰国後

 帰国後は、子育てをしながらドイツで学んだ子育てとリトミックを伝えたい気持ちから、母親向けのリトミックサークルを作りました。こどもの城でも痛感したとおり、幸せな子どもとお母さんの幸福感はイコールなのです。お母さんが楽しくリトミックをしていると、放っておいても子どもはリトミックを楽しむようになります。

 これは、この母親向けのリトミックサークルで実践して実証できました!

 第2子出産後は子育て、家族の在宅看護などを経ながらも、細々と親子のためのリトミックサークル講師、ピアノ教師、学校教員などを続けて、様々な年齢、様々な立場、状況の子どもの成長を見守り続けてきました。

影絵人形劇音楽制作

 子どもが小学生になると、学校でいろいろな学校支援活動に参加するようになりました。その一つの活動が朝の読み聞かせでした。その活動から、影絵人形劇団ができて音楽を担当することになりました。

 高校生の時に夢中になっていた、”音楽と物語のマッチング”こんなところで活かされるとは!

 好きなことがブレない人生って、無駄なことは何もない。

初級教育カウンセラー

 学校教員をしている時に、青少年の問題に触れ、教育カウンセラーの勉強をするようになりました。

 個人の心の問題は、個人の力だけではどうにもならない。周囲の人たちとの関わり方が大きく影響しています。

 人と人の関係は「1+1=2」の様にはなりません。ちょっとした言葉で物事や心境が大きく動くこともあります。

 今は、初級教育カウンセラーの資格をとり、コミュニケ―ションの取り方や言葉のかけかたにも専門的な手法があることを学びました。引き続き、実践に活かせるスキルを学び続けています。

レッスンでは・・・

 ドイツでの音楽経験と、日本で学んだすべてのメソッドを折衷し、ひとりひとりの個性と特性を考慮し、目的に合った手法で指導を行っています。

 音楽を通じて子ども達と関わることが子ども達の成長の一助となること、子ども達の成長を見守りサポートをすること、生徒さんと音楽の生涯にわたる良い関係を築くことが私の願いです。